笠原和夫の「映画はやくざなり」を読むことに決めて電車の中で読み始めてすごくおもしろかったんだけど、もう一冊「昭和の劇」という笠原和夫氏に生前(しかも出てすぐお亡くなりになった)インタビューをした本があり、その本のレビューを読んだら『笠原脚本に通底するものは「不能者としての暴力性」である。着流しのヤクザが女のすがりつく手を振り払って殴りこみに行くのは、「できないからですよ」と笠原は言う。』という一文があって、まあ本を読めばいろいろ深い意味があるんだろうけど、気になって仕方なくなってきたので、こっちから読むことにしました。
今年は「男たちのアジア映画」で四方田犬彦氏のいう「ホモ・ソーシャル」の理念を知ってから香港映画や昔の日本映画を見る目がもう180度かわってしまったんだけど、またこれ読んだらなんかまた違う世界が見えてくるんだろうか。

私が心から好いている映画は、ほとんど男だけの世界が確立されていて、女子がことごとく排除されていて、でもホモ・セクシャルではないというものが多いんだけど、最近は、監督や脚本家がどこまで意識してそういう関係を書いてるのかがちらついていてしょうがないとです。(あ、今ヒロシ見てたから…)
ジョニー・トーもザ・ミッションのときは、男同士の絆は自然に感じられたんだけど、この前の「柔道龍虎榜」のときは、意識してそういう関係を書こうとしてるのがちょっと見え見えに思えた。しかし、笠原氏が意識してそういうの書いてたとすると、「県警対組織暴力」とか「仁義なき」とかもそうなのかーーーー。なんか、ショックでもないけど、微妙な心持。監督や脚本家なんて無意識でそんな世界作らないってことか。

そして、ダダダーっと読みましたよ、例のところまで。理論はもっともであり、想像よりもつきぬけていて、あっけらかんとしていて、なんか気が抜けてきた。ムショに入るということがポインツだったとは!(台湾や韓国なら兵役も同じようなことになるかもしれない)ああー、これから着流しの前のはだけた健さんのふとももとか見たら、悶々としてしまうかも(笑)いや、私そういうのは趣味ないので、悶々とはちょっと違うんだけど、なんかこうヘナヘナーと。
しかし、ホモ・ソーシャルを感じさせる映画の登場人物で、いかにも耐えてる男の人には、限りなく女性性を感じていたのだけれど、それはあながち間違いじゃなかったのか!と思いました。